2011年1月の日記

1月2日 恩師をたずねて

毎年、郷土でやっているバンド同窓会ができそうにないということで、思い付いて、恩師に逢いに行こうと発案したら、つきあいのいい同級生二人が話にのってくれた。二人とも、高校最後の2年間、同じクラス。担任のS兄がやたらとはずかしがりやさんで、今まで卒業10周年、20周年の大きな同窓会があり、他のクラスの先生はどの先生も来て下さったのに、来てくれなかった。来年は30周年なので、まずは、こちらより尊家に出向き、お願い奉るつもりで、大阪土産も持って、伊丹空港から高知へ飛んだ。

先生のおうちは、ごめんなはり線という、日本鉄道建設公団建設線最後のAB線(日本最後のローカル新線ともいわれている)の和食という、今日行くということがなかったら、一生知らなかったような駅が最寄りの駅らしい。

というのは、一緒にいってくれた同級生の一人が、卒業アルバムから先生の住所を調べてくれて、それをグーグルしたらどうも、和食が最寄りっぽかったので、そこまで行くことにした。

高知空港の最寄りの駅は野市だというので(というのはインターネットで調べたし、空港の案内のおばさんもそういった)野市までタクシーで行って、そこで、同級生二人と合流ということになった。

なんじゃこりゃ。のいちんどんまん。

と思っていたら、一両のかわいい汽車がやってきた。ちゃんと写真とろうとおもったけど、ワンマンカーですぐに乗らないといけなくて、ちゃんと撮影できず残念。

汽車には二人が乗っていて、きゃーきゃーと三人で半ば遠足気分。あっという間に和食に到着。

当然無人駅で、キャリーバックとおみやげと手提げ鞄を持って、えっちらおっちらと階段を下り、地上へ出る。

グーグルによると、駅より山側だ。幼稚園の上の方だ。というわけで、そっちを目指す。

なんとなく町の方だから、そっちを目指そうというわけで、歩き始める。駅の近くの民家で咲き誇るアロエを見つける。

このパラボラアンテナは衛星を捕らえるのか?

そして、歩いて歩いて

どこにおうちがあるのかわからないが、30年前に、先生が私達生徒を招いてくれたときの幽かな記憶を頼りに、

「ああ、こういう道わたったような気がする」

「たしか、この溝で○○○。○した」

と、歩いた。ほとんど人通りはなかったが、家族がくるまででかけるのを見送ったおばあさんを見つけ、おばあさんに

「○○先生のおうちはどこですろ」

とお伺いすると

「そりゃ、もっともっとむこうじゃ」

というので、その方向にまたずんずん歩く。その後記憶をたよりに右に曲がり、ほぼ住宅地の行き止まりのところで、御家族みんながお庭で遊んでいるおうちにたどりついた。そこで住所と先生の名前をいうと

「そんな人はこのへんにはおらん。このあたりの名字は○○とか○○やきねえ」

「多分、道(駅前道路)の向こうやないろか」

「多分、海の向こうやないろか」

などとさんざんいわれ、我々の記憶がおかしいのか?グーグルうそつき!などとがっかりしてしまった。

「あのおうちに民生委員がおるき、きいてみ」

といわれ、聞きに行った。いってみると、その家族の前に道を聴こうとしたおうちだったが、そのときはお留守だった。いってみると、御在宅で、おじいちゃんが出てきた。おじいちゃんは親切にいろいろとおしえてくださった。

先生のおうちは、さっきの「多分海の向こうやないろか」のおたくの道はさんだ家の隣だった。なんなんだ。

ただ、先生は奥様がお亡くなりになり、お父様もお亡くなりになり、ひとりぼっちになって、奥様の勤めていた高知のお店の近くのマンションにいらっしゃるのではないかとのことだった。

ただ、そのマンションは

「いや、、、、、、それはわからん」

という、なんだか歯切れの悪いお返事だった。

私達はくやしいので、先生の家に勝手に入り、記念撮影をした。

私達はほぼ迷わず、ここに辿り着いたのだった。

すんごい歩いたので、しかも荷物もでかいし。またもや、駅まで歩くのか。と、ちょっとブルーになったものの、ここまでほぼ最短距離でこられた自分ら3人のえらさに大満足し、またもや和食にもどったのであった。

和食の駅には約一時間に一本ほどしか汽車が来ない。

ところが、私達がホームへえっちらおっちらあがると、そこに吸い込まれるように、ごめん行きの汽車が入ってきたのだった。

私達が小学校や中学校の遠足でしょっちゅう行った牧野植物園は美しくうまれかわり、モネの庭があるらしい。(この話は実は、4日の別の友達との再会に繋がる)

汽車のまどの向こうは、松林とまっすぐな海岸がずっと続いていた。

山側の窓からは、沢田マンションや、今は廃虚となった古城が見えた。

ごめん駅からJRに乗り換え、高知駅におりた。JRより、なはり線の汽車のほうがはるかにきれい。

高知駅でどうしょうかという話になり、

信頼のおける先生に電話して、S兄の携帯電話か住所を聞き出す

ことにした。

なぜ、最初からそうせんか?私達。

というわけで、教頭まで勤めたH先生の電話番号を調べるため、高知で名簿を持っていそうな友達に次々と電話をかけ、やっとH先生の電話番号が判明した。

H先生の御自宅に電話すると新年会で不在であったが、ていねいに事情を話すと、奥様がH先生の携帯電話番号を教えて下さった。H先生の携帯に電話すると、

ラッキーなことに、まだ先生はしらふであった。

そして、

  • S兄の携帯はわからない。
  • 住所もわからない。
  • M先生ならわかると思う。

と、もと教頭のくせに知らないっておかしなことをいい、しかも、S兄と同い年で、まじめなM先生を紹介してくれた。私達には時間がないし、先生も新年会中なので、あまり質問せず、次はM先生に電話した。M先生はあっさりとS兄の電話番号を教えてくれたが、やはり住所はわからないという。

というわけで、でるかでないかわからなかったが、S兄の携帯に電話した。S兄は、問題児だった友達と、女子だった私ではびびって電話きるかもしれないので、もう一人の友達が電話した。しかし、その友達のことは覚えていないようであった。仕方がないので、問題児と女子がかわるがわる電話かわったのだが、あいかわらずな口のききかたで、なつかしくあった。

しかし、住所のことをきくと

  • 今、芸西にはいない。
  • 高知にもいない。
  • てんてんとしている。
  • ちゃんと仕事はしゆき!(学校へはいきゆき)
  • 今日はあえない。
  • 明日ももうすぐ学校やき無理。
  • 住所は教えられない。だって、M先生にしれるろ?

って。

そんなことでは、生活指導の先生にけつバットされるぞ。

しかし、心優しい私達は、

「来年の30周年は絶対きてよ」

と言い残し、電話をきってあげた。(そのあと、SMS送ったりしたが)

しかたないので、夕方5時であったものの、日本酒のおいしいお店「ごまめ」に飲みに行った。

友達のS子ちゃんM実ちゃんもやってきて、さらに、最初に携帯電話した、H先生も乱入し、やたらと手品していた。

写真をとるも、私に手品を語りかけるH先生。(とても70には見えない)

一瞬カメラを向くH先生。

やはり、私に手品を見せることの方に集中してしまうH先生。

S子ちゃんは、小学校の先生だったけど、今はさらにえらくなって、中学の先生の指導員もしているらしい。「フェロモンが出ている」といわれていた。フェロモンは何を食べたら、どこから出てくるのだろうか?

M実ちゃんは高校のバンドからのつきあいだが、本当にすばらしいピアニストで、今は、音楽で高知をもりあげようとしてNPOを立ち上げたのだった。M実ちゃんが企画するコンサート行きたいのだが、なかなかいけなくてとっても残念。尼崎でもM実ちゃんの企画の民族音楽のコンサートに行きたい人がいっぱいいるのに。今日はおかあさんが具合悪くて、それでもちょっと顔をだしてくれた。このおかあさんは空揚げが上手でとってもいい人なのだ。そう、みんな、親が大変な年よねえ。

 

ごまめでは、

醴泉(れいせん)(岐阜)、船中八策しぼりたて(高知)、久礼(くれ)(高知)、美丈夫(びじょうぶ)(高知)、しらぎく(高知)をいただいた。どれもこれも美しい酒だった。

御主人は、尼崎出身で、今は高知で生活しているらしい。フォークソングライターをやっていて、嫁の田舎でごんたしたとか、面白い話をしてくれた。

二次会はニッカウイスキーの店に行った。ニッカとなつかしの缶ピースだけがおいてある店だった。

良く歩き、よく飲んだ。

 


1月3日 幼馴染み

子供の頃、近所にすんでいたS子ちゃんのおうち(新居)に招かれた。

私達は鏡川の畔に住んでいた。天神様側で、氏子だったので、母が

「こっちかわは、天神さんが守っちゅうき、台風でもつからん」

と良く言っていた。

でも、S子ちゃんちもうちも日当たりが悪くて、川の北側のおうちを見て、川を南に見下ろすのがとてもうらやましかった。

そして、S子ちゃんは、その永年の願いを叶えた。S子ちゃんちは鏡川の北側だった。しかも、私達が住んでいたところよりもずっと西側なので、土地も高く、南海地震が来ても、津波の心配がないそうだ。

S子ちゃんはとてもうれしそうだった。

S子ちゃんといえば、S子ちゃんは知らないが、実は、私が日本酒に開眼したおうちだった。

うちの実家は土佐鶴派だったが、私はそのあじがとても嫌いだった。当時は級でお酒をあらわしており、二級、一級、特級とあったが、どれもこれも、なんだかべちゃべちゃする感じがするし、舌にさすし、どうしても日本酒を好きになれなかった。

そして、S子ちゃんちに大晦日に遊びにいったとき、S子ちゃんちで、冷やの日本酒をふるまっていただいた。それが司牡丹だった。それ以来、私は日本酒が大好きになった。

今も、司牡丹が大好きだ。船中八策が無難においしいが、去年限定で配られた土佐龍は本当にすばらしかった。


夜は、母と、いろりの店にいっていろいろ話をした。

私と母は疎遠だが、一年に一度は必ずあって、お酒を飲み、お互いを報告しあうのだった。

もっと、頻繁に帰ってあげたいのだが、なんとなく、正月以外は家もでにくいし。

でも、息子ももう高校一年生だし、もうちょっと母孝行してもいいよね。


1月4日 同級生

この日は、尼崎へ帰る日だった。

しばらくあっていなかったH垣さんとあった。Oさんがやっている日本一おいしいアップルタルトを作っているベールベールで待ち合わせした。

Oさん、H垣さんと店先でさんざんおばさん話をして営業妨害しているところに、なんと、お仕事(保険外交員)で、Cちゃんが偶然やってきた。そして、さらにさんざんおばさんの立ち話をして営業妨害しまくり、さらに、ベールベールの店員に写真までとらせた。

楽しかったなー。すぐ高校のころに戻ることができ、いろんな懐かしい話をした。また、当然だが

「だれっちゃーーにゆうたらいかんで。 あのねえ、いいなよ、絶対いいなよ、」

の話もした。

H垣さんには車で空港まで送ってもらった。車の中で、またさんざん話をした。

H垣さんは、中学の頃から秀才で通っており、生物学で修士をとった(と思う。)今、五台山の牧野植物園(高知の子供なら3回は遠足で行く植物園。みんなオニバスに一番ショックをうける。ショックというのは、皆こどもは、百科事典などで、南方の子供がオニバスに乗っている写真をみているのでどんだけ大きいかと期待していくのだが、実は直系1mくらいで、子犬も無理みたいな大きさなのだ。H垣さんによると、日本の温室では気温が低すぎて、一年に一回枯れてしまうので、大きくなれないのだという)で働いていて、全国から送られてくる植物の名前を教えたり、分類したり、保存したりしているのだという。どんな植物でも見ただけで名前を言えるらしい!!すごいっ、わたしは、おうちに生えているいろんな植物の名前がいつも知りたかった。こんどからH垣さんに聞こう。

H垣さんの車は、空港まですぐきたけど、空港の玄関になかなか到達できず、くるくると空港の周りを回った。それも楽しい思いでよ!

今年はバンドができず、ちょっと残念だったけど、偶然に恵まれ、本当に充実した高知を過ごせた。

やはり卯年。跳躍の年なのだ。

年女でありがとう!!

 

 

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