2007年1月の日記

1月1日 あけましておめでとうございます

お正月は高知へ帰省していたが,色々また日記ねたがあるので,日を追って書きます.長いで.というか,私の個人的メモが多いので,読んでも疲れるだけです.まあ,この日記はいつもそうだが.


1月1日 年賀状

もう年賀状でしか挨拶しないともだちが多くなっている.会いたいのだが,今度会えるとしたら仕事リタイアしたときか,それとも一生会えないか・・・.

年賀状に写真を載せておいてくれると,20年会っていなくても,ああ,全然変わらないなとか,こんな家族ができたんだなとか,色々と楽しいもんだ.手書きで近況なんかを語ってくれるのも楽しい.

ところが,本当に年賀状でしか会話がないもんだから,ものすごく長いスパンの手紙のやりとりということになる.これだけインターネットがはびこっていても,ほとんど電子メールを書かない人というのは結構多い.というか,私は仕事しているからパソコン使うが,そういう仕事についていない人に,パソコンなんて高価なもの買わせて,わけのわからない配列のキーボードを打たせて電子メールを打たせるなんて,ほとんど奇跡に近いのではないだろうか?と私も思っている.

年賀状を年末に書く時,その年に来た年賀状を見ながら書くわけだが,そこに

「娘と剣道にはまり,初段になりました!」

なんて書いてあると,年賀状には

「剣の道を歩まれていますか?」

なんて,私は書いちゃうのだが,えらく長いスパンの文通だ.しかも,書く言葉は葉書一枚のスペースなだけに,数行しか書けないので,ものすごいピンポイントな会話を年越しでやっていることになる.

みんなそうなんだろうか?

いつか,みなさんに会えますように.


1月2日 高校卒業25周年同窓会

今年は卒業25周年ってことで大きな同窓会があった.

その大きな同窓会が夕方六時からということで,「その前にちゃんとできあがっておきましょう」というわけなのかなんなのか,昼に,またまた「ゆうがつかん」へバンド仲間+その仲良しさんで集合した.今回はこにたんもひさ●●くんも居ないってことでバンドはなし.(かたまん,また,やる気だしてレッドツェッペリンやろうぜ!)

ゆうがつかんへ

1時ごろ空港について,バスで高知市内へ向かい,例年と同じく,菊寿司でむしずしをたべ,のらりくらりとホテルへ向かい,無理矢理チェックインさせてもらって荷物をおろしていたら公衆電話から電話がかかってきた.電話主はふーちゃんだった.たしかおととし電話をFOMAに替えたとかで,電池が1日ももたんとか言っていたが,電池を替えてもらったものの,やはり1日ももたないのでわざわざ公衆電話から電話してきたらしい.私のMOVAあとどのくらいもつかな.FOMAに替えたく無いなあ.

ふーちゃんと大丸で待ち合わせして電車でゆうがつかんへ向かった.途中,はりまや橋からとでん西武が撤去され,国際ホテルも壊され,ダイエーは封鎖され,街はさびれ,イオンが一人勝ちという話をきいて,なんだか寂しくなった.イオンなんて遠いし,車はいつも渋滞しているし.私はおばあさんになったら高知へ帰ろうと思っていたが,買い物できるところはイオンだけってことになると,おばあさんにとっては住みにくい町になるよなあと心配.

そうこうしながらゆうがつかんへ到着.仲良しさんのいつもの顔ぶれがあって,うれしい.

この仲良しさんの中に,呼吸器の先生がいて,今年も色々と助言を頂いたのだった.今年は,周りに「咳が止まらない」という私にとって天敵みたいな風邪引いている人が多いのだが,幸せなことに,まだひいていない.冬になって私が風邪引かないなんて,なんか天変地異ちゃうか?これが温暖化ってことか?

内科って,経験則的要素が大きいのでなかなか大変だ.数式書いて三段論法みたいなのが通用しないし,薬は薬屋が作るし,わけわからん.外科とかだったら,まだ,こうやったらこうっていうのがあるかもしれないけどなあ.

お医者さんが二人いたので,ちょっと医療の話なんかもした.そうした付け焼き刃知識で2次会,っていうか25周年の大きな同窓会でもお医者さんや薬屋さんがたくさんいたので,ちょっと話題ふったら,おもいっきり付け焼き刃だったので,またまた,違う情報なんかを取り入れ・・・.

同窓会で同業者多いのっていいよなー.同窓会で機械学会C編仲間,もしくは航空宇宙学会構造部門仲間なんかいないもんなー.まー,同窓会で仕事の情報交換しても仕方ないか.

ちゅーか,同窓会といえども,大半は「知らないおじさん」なので,話題の手がかりが全然ないのだ.お医者同士だと,話のとっかかりというものがつかめるではないか.その後は,お互いの家庭の話でもよし,趣味の話でもよし,恋愛に走ってもよし.とにかくとっかかりがないと,「知らないおじさん」とは紹介でも無い限り,話なんか恥ずかしくてできないよ,おばはんは!

ゆうがつかんには,大好きな人ばっか集まっているので,とっても気楽だ.気楽にバカ話し,酒を呑み,ポテチを食べ,酒を呑み,寒いと文句を言い,酒を呑み,バカ話し,酒を呑み,ナッツを食べ,酒を呑み・・・.

ゆうがつかんで呑むときは,近所のコンビニSPARでお酒を仕入れる.今年は宇宙で酵母を膨らませて帰ってきたお酒というのを呑んだ.レジでお金払うとき,レジのにーさんが

「これ1050円するけんど,かまんろうか?」

と聞いてきた.一瞬えええっっと怯んでしまった.「高い」「なんとかならんか」「ほんまにおいしいが?」などと聞いたが,結局購入.まあ,7人か8人で割るき,えいろう.

で,味はというと,うーん,普通の辛口.

一緒にふーちゃんおすすめの「飲みやすいお酒」も買った(名前は忘れた)が,確かに飲みやすいものの,ちょっと硬い感じのするお酒だった.やっぱ,高知の酒のレベルは高いのかもしれない.すっきり辛口淡麗で,誰でも抵抗なくごんごん飲める.最近よく売られている吟醸酒とかがふつうの二級とかで実現されていると考えてほしい.それなのに,水のように硬い感じがなく,柔らかい.「酒は男の子守唄」という高知のある酒造のCMで言っていたがその通りで,高知のお酒は柔らかく,かつ,辛口なので胃が悪くなったりしないようになっている.これは良くも悪くも酒飲みを作る.飲みやすいので毎日飲み過ぎちゃうのだ.で,肝臓をやってしまう.そのくらい呑みやすい.

私は今兵庫に住んでいるが,酒造の方には悪いが,こっちの人たちの日本酒というと甘口で,まったりと口に残るものが多い.「呑んだ!」という気になるからその方が売れるのかもしれないが,そのせいか,こっちの人はあまり酒をがぼがぼ呑まないような気がする.焼酎や洋酒に量的に日本酒が負けているかもしれない.特に「白」とか「雪」とか白いイメージの名前がつくとそういう傾向があるような気がする.(あくまで主観,酒造メーカーの人,おこらないでください.私の好みの問題です)ただ,良いお酒にもたまに出会ったりする.尼崎のうちの近所のはま●に置いていた限定大吟醸はすばらしかった.かぽかぽと何合でも呑める.そして次の日残らない.でも,そういうお酒は高いし,なかなか出会えない.

そんなわけで,少しだけ呑んで,「keiko,顔,赤いで」とかいわれつつ,二次会,じゃなくて,25周年同窓会へ.


卒業25周年記念同窓会へ

かーさきとふーちゃんと3人でタクシーで新阪急ホテルへ到着.1万円らーて高いよねえ.誰が儲けゆがで?なんてぶつぶつ文句を言いながら3Fへ上って同窓会へ.

御存命の先生方が来て下さっていたが,わたしの担任だった先生はいつも同様欠席.彼は中年になっても,まだ精神おこちゃまか?とってもはずかしがりやさんなのだった.


せっちゃん

反して,今年90歳になられる中澤節子先生は,今でもしゃきっと背筋をのばしてお元気でいらっしゃった.先生がお元気なだけでなんだか涙ぐんでしまう,そんな恩師だ.先生は中1からずっと学年担任で,本当に私達をかわいがってくださった.卒業してからの方がその恩を痛感するのだった.戦争かなにかで夫を亡くし,勉強して英語の教師となり,片肺を切除する大病を患いながらもいつも元気よく私達を怒り飛ばして下さった.

現在は他の高校で教鞭をとられており,学生から「せっちゃん」と呼ばれているそうだ.学生に「せっちゃん,男には気をつけないかんよ」などと言われているそうで,そういうエピソードからもせっちゃんの現在のいきいきとした授業ぶりが伺われる.

数年前に大腸癌にかかったそうだが,手術でとったという.ふつう,そんな高齢だと医者もひるむと思うが,せっちゃんは別格だよね.この先もずっとずっとお元気で長生きして下さい.私も少しでもせっちゃんに近付けるよう努力したいと思います.


同窓生と

女子は大体20周年の時に顔をあわせた人たちが大半で,大体誰が誰かよくわかった.懐かしい顔もあり,うれしくなる.

大体が同じ位の子供を持っているので,話は受験で盛り上がったりした.

うちの高校はうちらの時代ではとりあえず,県下一番の受験校だったので,まあ,そこそこ普通に成績のよい人ばっかりだ.ところが,じゃあ,子供も賢いかというとそんなわけなくて,特に男の子なんか,たかちんを代表として,いつまでたっても幼く赤ちゃんぽく,別に志もなく,なんとなーく楽しく生きていることが多い.この性格形成は多分に政府の「ゆとり教育」指導の影響も大きいと思われる.誰もがほんわかして,良い子ばかり,競争なしというのは良い面もあるものの,失ったものも大きい.男の子って,学生の時,さんざん幼い癖に,知らない内に,女子よりどんどん大人になってりっぱなおっさんになっていくのね.

しかし,せっかく同窓会に来たのだから,話もせんと.

というわけで,私は強力な助っ人のむやんに,同じクラスだった人を紹介してもらって回ることにした.「なんとなく見たことがある人」を10人位紹介してもらった.運動会の時,男子は徹夜でやぐらを組むのだが,女子はその間,自宅待機(というか,ふつーに寝ている)なので,運動会では楽させてもらっている.私は比較的グランドに家が近かったので,朝方ともだちとおむすびをつくってやぐらを組んでいる男子に差し入れしたのだが,他のクラスの女子はもっと早く来てくれていたみたいで,「遅い!」と文句を言われた気がする.確かに遅かったので,とても恐縮した記憶があるが,実は結構喜んでくれていたことなんかを聞くと嬉しかった.また,運動会の後,私の実家の中華料理店の龍園で打ち上げをしたのだが,それも覚えていてくれた.私はあまり覚えていないようなことでも色々覚えてくれていて,いまや龍園は見る影も無く,ひっこんでしまっている母も覚えていてくれていたことを嬉しく感じてくれることだろう.

ちょっとひさしぶりにひでじんを見かけたのでひでじんに挨拶したらK山くんがいた.この日きいたところによると,K山くんは,同級生のF田さんとつい最近ご結婚されたらしい.同窓どうしで結婚なんて,なんだかびっくりロマンチックじゃないか?

K山くんは,なんと,つづきくんのホームページ(57回生のホームページ)から私のところへ辿って来ていたらしく,数年前までこの日記をフォローしてくれていたらしい.だが,あまりにも文句が多いのでうんざりして今は読んでいないらしい.そらそうや!と笑いつつ,数年前私,何書いてたかな(@_@;;)と内心焦り捲り,自分で全世界に自分の文句を公開しているわりに,実際に「見た」という人に遭遇するととっても恥ずかしいのだった.だったら止めればいいのに,文句はいつまでたっても後から後から湧き出てくるのだった.

ホームページをはじめたきっかけとなった「縮毛矯正の情報」ページも見てくれていたのだった.あのページは,自分では天然パーマに悩む人か美容師くらいしか興味がないだろうと思っていたのだが,単に同級生というだけで見てくれている人もいたのだった.

大体私のホームページといったら,かがちんにも「巨大モールのようだ」と言われた位個人のページとしては幅広い.というか節操が無い.というか,文句と自慢大杉.

ジオを代表としてタダのサービスを駆使しているので,契約しているウエブサービスだけで現在10個ある.ジャンルはめちゃくちゃで,メインの縮毛矯正のサイトは主に自分のプライベートで,子供やら旅行やら料理やらパソコンやらである.他は自己紹介とか,57回生バンド,ジェフベック,CDやライブの紹介,自分が関わったバンドやセッションとかで,どれもがむちゃくちゃなリンクを張っているのですべてを読み切るのは非常に困難だ.というか,困難にしている.こういう場合,自分が興味あるとこしか見ないはずだから,直毛の人が縮毛矯正の情報なんて見るわけがないとおもっていた.

ところが見てくれていたわけである.

よーく考えるとこれには理由があったと思う.

つまり,私は学生時代,頭がちりちりで爆発状態で,みかけの汚い女子だったわけで,その印象が非常に強い.従って,同級生の私の印象といやー,天パーなのだ.というわけで,自分が矯正の情報を欲しいと思っていなくても,そういう印象を持っていた人は見てくれるわけだ.そこまで私はちゃんと考えてホームページを作っていたわけでは無いので,なんと,縮毛矯正の情報のページでは,自分が天パーでいじめられたことを被害者意識満々で書き綴ってしまっている.確かにこの被害者意識というのは天パー仲間の中では大変重要なことで,これによって人生投げ出す人もいたわけで,私がホームページでこの経験を述べることで,ピンポイントの人たちの気持ちを少しでも軽くしてあげることに貢献したと自負している.そんな人は日本で言えば大変少数派ではあるが,少数派でもそういう人たちに希望を持ってもらえたことはとっても有り難いことなのだ.だから,しょうがないっちゃーしょうがないが,私が被害者ってことは,私にとっての加害者がいるわけだ.その加害者だってインターネットに繋がっていればホームページを見るわけだ.私にとっては加害者だが,よーく考えると,めっちゃ天パーで,なおかつ人に「パーマかけてみたら」「段カットにしてみたら」「ちょっと短くしてみたら」「こんな髪型にしてみれば」といわれ,わらをもすがる思いでチャレンジしてはますます爆発し「なんで,keikoはあんな汚い髪をさらに誇張して汚く見える髪型をわざわざするか」と思われたりするのは,ごくごく当然で自然なことだ.さらに,男の子どうしの遊びのネタになるのも当然のことだ.私は傷付いたが,今になって考えると,向こうが「変な頭」と思ったことだって,からかったのだって,私がもともと汚いのだから,私からしかけているようなもんだ.

ということにK山くんは気付かせてくれたとおもう.「おれも頭のことゆうたと思うわ,ごめんごめん」みたいに笑って言ってくれた.うーん,なんていい性格なんだろう.ふつう,私があんなに被害者意識満々で書いていたら気分悪くして話し掛けてくれないよねえ...私も過去のことは精算しなくっちゃ.髪の毛まっすぐにしただけで,人生変わったし,もう十分幸せだし,取り戻したし.K山くん,話し掛けてくれてありがとう!ほんとに感謝してます.


といったようなおしゃべりをしつつ,いつのまにやら宴も終わり,1万円の料理は大量に残されていた.もったいない.タッパーにつめて持って帰りたかったが,ノロウイルスなんかがはやっている現在ではそれもできないらしい.結構おいしかったのに.なんて後ろ髪をひかれつつ,3次会,じゃなくて,2次会へ.


2次会へ

2次会はワシントンホテルが潰れた後,新たにできたホテルの1Fで同級生の妹がやっている店だった.ふつうの店なので着席形式となった.同じクラスだったGちゃんとなぜかペアとなり,Gちゃんと他の席にちょっかい出しに行くということをやっていた.Gちゃんは昔と変わらず天然に面白い人だった.今はりっぱなお母さんだが,子供の勉強に関してはやはり私と同一の悩みを持ち,ただ,悩みというほどでなく,二人ともそれでも「かわいいからいいか」みたいな親ばかなのだった.

最初の席の前には美しいことで有名で,同じ町内会に居たMと,その隣にG太.G太は確か官僚エリートコースと聞いていたが,話ししてみたら全然中身は同じだった.高3の時,G太に誘われてたけじーの数IIIの塾に通った.女子はG太と私だけだったが,G太は途中,突然文系に転向した.私なんかよりずっと成績がいい人だったので,文系でエリートを目指すことを見い出したかと思っていたが,彼女は「あれが私の逃げの人生のはじまりだった」なんて言っていた.理想の高い人というのは,周りが見えないものなのか.自分の理想に達しないと思われるとすぐ志し転向するのか.そういう人って,何かの一番ということが大事で,自分が何をやりたいかではないんだろうか.どっちにしろ,彼女は私なんかよりずっと優秀だったし,今だってエリートだ.なのに,自分では「逃げの人生」なんてなにか満足していないのだろうか.でも,逃げたことで自分の理想を満足させているのだから,それは彼女にとって正解で,成功なのだから胸を張っていいのではないのか?それとも「逃げの人生」というのは,あまりにも自分がエリートだから謙遜して言っているのか?

なんてことを考えつつ,Gちゃんと一緒に知っていそうな人の席に回る.最初に回った席の人は何を間違えたか知らない人だった.でも,それなりに共通の話題(結局子供の話)があり,そこそこもりあがる.しかし,結局トイレ(高校時代を思い出し,25年ぶりに女子連れション)をきっかけに,別の席にうつる.のむやんが居たので,のむやん頼りに席をうつしたのだった.

そこにはたまたまだが,幼稚園,小学校,中学校,高校と同じところへ通ったMQくんがいて,さらにそこに,同じ小学校だった人達がたまたまやってきた.

MQくんとは幼稚園,小学校,中学校,高校が同じだというのに,一度も同じクラスになったことがなく,昨年の他のクラスの同窓会でたまたまMQくんに声をかけられてその事実を知った.しかし,一度も同じクラスになったことがないから顔もわからない.実は彼も私の顔を覚えていなかったらしいが,五年前の同窓会でバンドで私が歌っているのを見て惚れてくれたという(誇張度100).なんていいやつなのだ.職業は石油王だし,もっと早く出会いたかったぞ.なんて思いつつも,同窓会で10分くらい話をする仲のまま発展しないのだった.

その後,他にも幼稚園,小学校,中学校,高校一緒だった人が現れ,しかも,兵庫におすまいとのことで,なんだか嬉しくなる.東京のともだちが,ともだち同士で良く会っているというのをきいて,兵庫なんて,誰も住んでるわけないよなあとうらやましく思っていただけに,うれしい.

いやー,今回の同窓会,来てよかったなあ.幹事の人たち,ほんまありがとう.

11時頃お開きということだったが,同じテニス部で,大学受験勉強も図書館でずっといっしょにやっていたオー●ンとほとんど話ができなかったので,この後,私が眠くなって動けなくなる12時まで一緒に話をしましょうよということで3次会へ行くが,なぜか,そこに, オー●ンと同じクラスの男子一名と,私と同じクラスの男子一名がやってきて,一緒に3次会へ流れることになる.オー●ンと同じクラスの男子一名はクラスも違うし,ほんっっっとーに知らないおじさんだ.なんだか色々はなしかけてくれるが,名前もわからないし,オー●ンと同じクラスということもしばらくわからなかった.いったい誰だったのだろうか?


セザンヌ

高校のときに,私と同じクラスの男子一名がよく通っていた(高校生のぶんざいで喫茶店に通うなんて金遣い過ぎ!そんなことをしているのは医者と税理士のどら息子つづきくん位だと思っていたが)という喫茶店セザンヌへ.戦火を逃れた古い佇まいで,ジャズのレコードが少し棚に残っている.

オー●ンと話をするはずが,男子二名につかまってしまったと,半ば悔しい思いをしつつも,オー●ンは結構楽しそうなので,まあいいかと思い,同じクラス同士でなんとなくおしゃべりしたら,同じクラスだった男子一名が,結構ふつーな話をしてくるので少し意外だった.彼は中1から高3まで結構同じクラスになった人だったが,私と違い,中1から大変成績が良く,そうかと思うと,高校の時突然政治やアートに興味を持ちはじめて,生徒会長に立候補するのに,Hなポスターつくって中澤先生にこじゃんと怒られたという印象だった.

同級生のともだちが性格が悪くてどうしようもないという話をしていたが,ほんとにその子がすきなんだなと思った.性格悪くて,こんなで,あんなで,さらにこんなことされて,でも好きなのよね.それが本当の友情であり,愛情だ.そんな性悪友に捕まって良かったな,C一!(←スペルミスではありません)

しかしながら,私のともだちなら誰でも知っていると思うが,私は12時までのシンデレラガールなのだった.単に体がおこちゃまで夜はすぐ眠くなるだけだが.

すでに時計は1時を回っており,あーねむーということで解散.オー●ンはまだまだで,4次会にせっかく誘ってくれたものの,ごめん,私,高校のときもそうやったってしっちゅうろうけど,眠い.ってことで惜しみつつ2時頃別れる.

その後ホテルに帰るが眠すぎて眠れず,結局五時頃までベッドの上で悶々としていた.なんとかならんかこの子供体質.

徹夜といえば,一度社会のテスト前に徹夜してでもがんばると思い込み,12時を過ぎても起きてがんばり,何時に寝たかはしらないが,次の日のテストは寝不足で体調が悪く,しかも全く試験の内容はさっぱりだった.女の子どうしでともだちの家にいって徹夜であそぼーぜ,っちゅうときでもひとりだけ寝ていたような.さらに,大学の卒業旅行で倉敷のアイビースクエアで泊まった時も,ひとり,部屋を占領して寝てしまったような.

私が夜眠く無い時というのは,恋愛で胸焦がし,ひとり悶々と彼を思い詰める,そんな夜だけです.

そんな夜も,ここんとこ御無沙汰だなあ.

そんなこととも御無沙汰ということも幸せなことよね.


次の日,母と

姉がアメリカにしばらく学会発表出張行くっていうので,母としか会えなかったが,まあ,色々話ししました.姉が小さいころ,母は専業主婦だったけど,私が生まれたときはすでに龍園のおかみさんだったので,私と母はなんとなく同志みたいな関係だ.姉のようにべったりでもなく,ただ,精神は繋がっているといったような.

お酒を止める姉がいないもんだから,つい二人でお酒をくいくいいってしまい,母は少しよっぱらって,いろんな話を始めた.戦争の最後に,アメリカが飛行機に乗って焼夷弾をばらまいていった.ばらまいて,低空飛行したとき,乗っていたアメリカ人が下を見て笑っていたという.鏡川北岸に逃げた人たちは隠れるところがなくて,ねらい撃ちされ皆死んでしまい,山内神社の前は死体の山だった.母のおかあさんが「学校やったらいくらなんでもねらわんき,学校へ逃げなさい」というので学校へ逃げようとしたところ中に入れず,溝に身をひそめていたら,学校内がねらい撃ちされ,かろうじて助かったとか.

今のこの世で平和に生きられるこの幸せよ.

あんまり贅沢ゆうたらいかんね.ばちがあたるぜよ.


1月17日 引き渡し訓練

もう12年もたったのだなと,生きて思い還れることに感謝しつつ,犠牲者に黙祷する日.

そういう日だから,職場でも地域でも学校でも毎年恒例の訓練があった.午前は職場で,午後は学校で.雨がふっていたので歩いて学校まで行くと,よく見る息子のともだちがいっぱい.向こうから私をみつけてくれて,「おー,たかちんのおかーさん」って声かけてくれる.息子のともだちは皆いい子ばかりだ.きっと小学校みんないい子ばかりなんだろうな.地震の年に生まれた子たち.皆死なずに生きてきて,こんなにいい子に育った.どんなことしても生き抜くことを目標にしなくては.そして,あの日を忘れないようにしなくては.


最近ラッキーが続いて調子にのっていた私.少し引き締めなければ.と思っています.何ごとにも感謝しつつ謙虚に.

高知から大阪へ私を乗せて行ってくれたANAのボンバルディア

 

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