2005年11月の日記

11月3日 風邪...(またや.) →ふーちゃんがんばれ

家族が次々と風邪で倒れているとおもっていたら,自分もしんどくなってしまった.薬で抑えているので熱が出ないが,症状もひかない.どうしたらよいのか?明日は平日に休みがとれたので高知へ帰るつもりだったが無理である.かたまんちへ行ってブリッジを見てもらうことにしていたが叶わぬ夢となってしまった.(T_T)

以前,ミクシーに誘われて入っていたが,使い方が分からず放置していた.そしたら,そこはかとなく,そこらへんから「私もミクシー入っています」という人がじゃんじゃんでてきた.それもかなり近しい友だちばっか.

ふーちゃんなんか,「楽しすぎてはまる」などといっている.そんなに楽しいなんて一体?と思って自分のホームページへ行ってみるが全然楽しさがよくわからない.というか,使い方がわからない.

そんななかでへびちゃんが詳しいマイミクシーの使い方を教えてくれた.というか,へびちゃんがマイミクシー登録というのをやってくれたのだが.マイミクシーとは名前が変だが,実は相互リンクのことらしい.というか,ミクシーという名前自体意味がわからん.今はやりのブログの一種か?

というわけで,自力でふーちゃんとおーつかさんにマイミクシー登録をしたところ成功したようだった.しかし,未だに「楽しすぎてはまる」理由がよくわかっていない.一体何がはまるほど楽しいのか??良く見ると掲示板みたいなのとか,フォーラムみたいなのがあるらしいのだが,これもどうやってたどりつくのかがわからない.皆,なぜ簡単に辿り着いて盛り上がれるのか.

ところで,最近ふーちゃんもブログをやっている.ふーちゃんといえば,高校の頃,ほぼ毎日書いてくれるお手紙のあまりの面白さに誰もがはまるほどの文章力のすごい人で,今彼女の高校のころの手紙が発見されたら,すごいことになるんじゃないか?と思われる.その片鱗はスキャッターブレインでも見ることはできるものの,その毎日書いていた手紙はもっと自由奔放に彼女の毎日が綴られており,彼女独特の小さいつぶつぶの字でうめられた手紙を見るのが私は本当に本当に楽しみだった.彼女はその手紙をいつも器用に折り紙してコンパクトに小さくまとめて,昼休みなどに私に渡すのだった.渡すときは,必ず彼女は私から目をそらしつつ,片手で手紙を私に突き出して「はいっ」といってくれるのだった.その後,彼女は東京の大学へ進み,その後ドイツへ語学研修で留学する.離れても時々手紙をくれた.あのつぶつぶの文字でびっしりと面白いことが書いてあったような気がする.語学の道に進んだのは,彼女のような語力がある人には本当にぴったりだとおもった.彼女の家は医者でお姉さん二人とも医者だったので,彼女もみたいなプレッシャーもあったようだが,彼女は親を説得したらしい.えらいぞふーちゃん.道は間違っていなかったぞ.

そんなふーちゃんなので,彼女が早くホームページを持って,スキャブレしてくれないかなあと思って居た.それが最近いになってやっとブログという最新のインターネット形態で実現したようだ.ブログの見方がよくわかっていないので私もちゃんと見られていないが,最近の記事をみたら,私とメールで話していたわすれんぼ自慢みたいなのがのっていた.

最近ブログや日記を持っている人が多いのだが,どれも,ほぼ毎日更新してあって,さらに気軽な感じで文章が割と短い.私のように週1あるかないかでながながだらだらしている人はあまりいない.

ふーちゃんのブログも比較的短い文章の部類にはいるとおもうのだが,また,高校の時のように,暇をみつけて長文に挑戦していただきたいものである.今仕事忙しいから無理か.アルバムとかのちょっとしたレビューとかもみたが,ふーちゃんの本領はあんなもんじゃないっす.できたらスキャブレとかの彼女のすばらしい特集号などを彼女のブログで公開してほしいくらい.編集してもいいから.

ああ,まるでこんなこと書いているとふーちゃんがプロのもの書きで,私が読者評論しているみたいですが,いや,ほんとにふーちゃんはおもしろいんだって.

リクエストできるなら,ふーちゃんにぜひベイシティローラーズのボーカルの人(だれだっけ?)の思いでとか書いてほしいな.かなり勢いのある長文を楽しめそうなんだが・・・.それに,きっと今のふーちゃんのファンの人たちもきっと楽しいと思う.

そうそう.こんなところでなんですが,どうもふーちゃんは,ここ見てくれているみたいなので,ここで伝達します.ふーちゃん,良かったらですが,ブログ名にスキャッターブレインという名前使ってくださいよ.スキャッターブレインの権利はふーちゃんにあると思います.別にいらんならいいけど.今のWho's Fooもすてきだとおもいます.ほいじゃまた,ミクシーメールで.(なんて,ちょっと使えたからといって.ははは.)


11月12日 紅葉狩り

初めて紅葉狩りを体験したのは大学1年生の秋11月3日に神護寺へ同級生といった時だった.血のように紅い紅葉を初めて見た.一面血でうめ尽くされたような赤だった.以来紅葉狩りには行っていなかったが,地球温暖化のせいで,極端に急に寒くなることがなくなったため,紅葉が一面血のように紅いということはなく,各木の個体差や日照の差異によってだんだん色付くようになったという.つまり,ある木は紅いが,ある木は緑だし,一方ではすでに落葉して裸木となっているといった具合だ.

昨日お天気が悪かったのに,今日は空も晴れ上がり,気温もそこそこ高く,私の風邪もかなりよくなったので,外へ行きたくなった.そういえば,最近,体調のせいもあって,土曜に仕事をしておらず,週休2日が定着しており,今日も,このせっかくのきれいに晴れ上がった空を尻目に雑用をするのが勿体無く感じられ,1時間だけ紅葉を見に行こうと決心した.

しかし,まだ11月上旬.ヤフーで調べると,紅葉しているのは,山の上ばかり.兵庫県で山といえば六甲山.というわけで,思い立って六甲山へ紅葉を見に登った.

ふだん山登りというと,絶対に嫌な分野なのだが,自分で決心して登るとなると別である.これは一人旅の心理と似ている.誰かと一緒に旅をするというのは,その相手が誰であれ,少なからず,気遣いが必要である.しかし,一人の場合は自分だけ気侭にでかければ良いし,行きたいところへ行けば良く,トイレに行きたくなればいけば良い.

六甲山はさすがに寒かったが,紅葉は美しかった.しかし,20年前に見たあの一面血で覆われたような感じはなく,色がまばらについていた.しかし,それぞれの色あいがまた,別の美しさを醸し出していた.

池には,それぞれの木々の色が映っており,面(おもて)の像と空に向かう実像とのコントラストが,まるで,今の私のように,虚実を著して居た.

私を映す面は私をどう映しているだろうか.

紅葉を見て居たのは何分くらいだろうか.移動の時間だけが長かったような気もする.紅葉をゆっくりと鑑賞できるような日々がくるだろうか.

 


11月20日 ホームページ

鍼灸の先生がブログなどに詳しくて,自分の知りたい色色な情報がブログで捜せるということがわかってきたが,いまだに,ブログに不馴れで,一体,どうすれば,そんなに情報がたくさん取りだせるのか分かっていない状態なのだった.鍼灸の先生はいろんな情報を知っていて,ブログをあやつればあんなにいろいろと自分の知りたいことがわかるのかとも思うが,それ以上のことができない私だった.

今私にとっての情報源といえば,グーグルのみであり,グーグルであたるのはブログじゃなくてほとんどふつうのホームページなので,きっと情報源は限られているのだろうなあ.

スティービーワンダーの新譜は非常によかったが,結局あのアイシャがアイシャだったことはこの鍼灸の先生に確認してきいたのだった.しかし,結局,あの子供の声はアイシャの子供なのかよくわかっていない.

こういう情報も知りたいので,私はなるだけCDは日本版を買うように心掛けているつもりなのだが,アマゾンとかHMVで買うと,なぜか知らない間に輸入版になっていて,何を歌っているかも分からず,解説もなく,ということに陥っている.日本版の方が1000円位高いこともあるが,今からブログの達人になる暇もないし,1000円払ってでも日本版がほしいとこだった.

ブログについていけない理由として,ツリー型の掲示板に昔からついていけないという理由もある.時系列で前から後ろにずらっと並ばないと,なんだか自分がよみたいところがすぐに捜せないのだった.あと,グラフィカルな表形式(というか,段組になっているホームページも一つのページにいろんなことがかいてあってよくわからない.

要は,私は代数はできるが,幾何がだめという根本的なところに原因があるような気がする.未だに幾何はだめだ.なんと,今小学5年生の息子にすら,幾何はまけてしまう.理科系の仕事についているのに,しかも力学系なのに.情けない.

そんな私なので,結局いまだに昔ながらのホームページなのだった.

ホームページは今,最初に手をつけたここのジオシティアメリカと,正月バンドとセッションバンド用にジオジャパンが2個,水筒バンドもといインダイヤモンズ用にクールオンライン,ギター自慢にサウンドjp,セッションのCGI用に畏怖ぉシーク,写真用にfc2webを使っている.ジオシティから始まって,容量が足りなくなると次という風に契約するうちに,7個も契約してしまった.冗長性があるといえばそうだが・・・.

8年ホームページをやっていると,8年前に自分が書いたのみると,まるで他人のようである.というか,実は他人?今の私ってなに?みたいなブレードランナー的感覚に陥ってしまう.

ホームページって,ものすごくくどい自己紹介のようなものである.実は自分自身のためのメモ的意味がもっとも大きいのだが,公開している時点で,誰かに語りかけているわけである.

自分自身のメモという意味では,8年前の部分を読むと自分再認識みたいな感じで面白いのだが,これを書いているってことは,誰かにこれを伝えたかったということなんだろうな.

一体それは誰か?結局自分か?自分と共感してくれる人をさがしているのか?共感しない人からなにか教授がほしいのか?大事な人に自分を知ってもらいたいのか?知らない人と同じ思いを分かち合いたいのか?

しかし,本当にメモしておきたいことというのはインターネットには書けないことばかりだ.

インターネットに書けないから,心の中にメモしておくのだが,私の場合,記憶力が貧相なもので,結局「本当にメモしておきたいこと」は順次捨てられていくのであった.頭の中のタンスの容量が小さくて,新しい服を買うと,昔の服は捨てられるのであった.それも本人が知らないうちに.

インターネットに書かずとも,自分で日記を書けばいいことなのだが,多分,書いたものと,その時感じたこととは違うのではないか?書いてしまった時点で,自分のその時の考え方が別の形で整理されてしまい,納得してしまうところがあるのではないか?頭に思い描いていることを日本語で形にしてしまった時点で,もやもやがなくなり,それはそれですっきりするのだが,もやもやのごみっぽい部分が捨てられてしまうかもしれない.

なんて,いいわけをせずに,きっちりメモすればいいんですけどね.


11月20日 音楽を聴きながら

本日2度目の日記です.私の日記って,思い徒然なので,テーマがむちゃくちゃ.ブログだとカテゴリーにわけているからこの当たりがいいんだろうな.というか,私のホームページももうちょっとカテゴリーわけをちゃんとすればいいだけか?しかし,これ以上コンテンツ増えるのもな.

音楽は聴くけど,あまりマニアックでない,最近CDプレイヤーが自分の部屋にやってきた友人にCDを貸しまくっている私だが,「keikoさんはマニアックすぎてこのCDの良さがわからない」と言われることしばしばである.

しかし,その中でも「これは凄く好き,一日中何度も聴きました」と言われるのもあったりする.そういうCDは,彼だけでなく,つまり一般受けするアルバムである.

音楽が一般受けする理由とはなんだろうか?こんな複雑な音の合成が,このCD一般受けし,このCDはうけない.この音楽は誰もが良いと思い,これは良いと思われない.

例えば,私が「スティービーワンダーの今度の新譜はすごい.すばらしく良かった.でも,それまでの彼の最近のアルバムはあまりよくなかった」と感じて居たことをふーちゃんに云ったら,ふーちゃんも同じようなことを感じて居たようで,この一つの完成された音楽をきいて,同じようにこれはよい,これはよくないと判断づけるのは一体なんだろうか?

昨日テレビで天使にラブソングを2をやっていて,2回目か3回目かで見たが,やっぱりローリンヒルの歌には感動するし,映画の中で聖歌隊が一生懸命歌うところは何度見ても感動する.これはなんでなんだろうか?

ボーカルのすばらしいのを聴くと私はひと一番感受性が高いのか,思わず涙ぐむほど感動する.それはジャンルを問わず,昨日はローリンヒルで涙ぐんだし,学会では独唱で涙ぐんだし,つかしんのチャーチでのグループトレーニングでは浜渦さんの歌うオペラに涙ぐんだ(グループ指導中に!である.こっちは習う立場で行っていて,それを忘れて感動して涙ぐんでしまって居た.もちろん,隠して知らない振りしていたが)

そういえば,ボーカルに限らず,公民館にきていた馬頭琴聴いた時でも涙ぐんでしまった.ジェフベックの今回のコンサートの2 riversもそうだ.一体この私を涙ぐませるのはなんなのか?

例えば,クイーンのコンサートでフレディのアップが出ましたということで涙ぐむのとはわけがちがう.音を聴いて心が動いて涙ぐむという現象は一体なんなのだろうか?そして,どんな種類の音がそうさせるのか?

わからないけど,その音は私に限らず,複数の人に同じように感動を与える.歌詞の内容とか,そんな日本語がわからないとわからないような二次的なことではなく.

それは私の状態にも因るということが最近わかる出来事があった.

つい,何週間か前,ちょっと考え込んでしまうような出来事があり,毎日泣いてばかりいた.昼間別の出来事があれば,元気になれるし,一所懸命他のことを考えようとし,気を逸らせることばかり考えて集中しようとしていた.しかし,夜寝る時にまで,一所懸命他のことを考えていると寝られないわけで,つい,何も考えない瞬間の隙間をすり抜けて思い出したく無い悲しい出来事が頭から離れなくなり,自分の立場,自分の醜さ,矮小さを思い知らされ続けた.

ちょうど,そのころ,たまたま,シャーデーのDVDを購入したころで,そのステージの美しさにシャーデーが好きだったことを思い出し,シャーデーをよく聴いて居た.彼女の歌は悲しい恋の歌が多いのだが,輸入版にあたってしまうタチの私は歌詞の内容を知らないことが多い.従って,その曲の内容がどんな悲しい内容なのかを知らない.

しかし,その曲の哀しい調子というのが,その時の私の気持ちに同調したのか,曲を聴くたびにさらに哀しくなっていた.しかし,その時は,それが悲しみを助長しているということには全く気がついていなかった.

そんなことをすっかり忘れて居た最近(そう,私の記憶容量は恐ろしく小さいのであった.これは大変なデメリットであり,同時に大きなメリットでもある.人間は忘れるということが非常に恐ろしいことでもあるが,同時に忘れることで生きていける.),CDが手許にあったので,シャーデーを聴いてみたところ,そのアルバムが出た当時に聴いた時と同じ感想

「なんじゃこれ」

という感想を抱いてしまった.(ごめん,シャーデー)

もしかして,その曲に同調して感動する過程というのは,その曲を作った人のその作った時の感情に同調しているということなんだろうか?

しかし,哀しくて辛いときに哀しい曲調の曲なんか,ふつう哀しくて作れないのではないだろうか?それともプロの人というのは,哀しいことをメモしておいて,元気な時にそれを編集して作り上げていくんだろうか?しかし,聴くだけでこんなに哀しくなるのに,作っている本人は一体どういう気持ちなんだろうか??

昨日会社の人が今井美樹が好きだというので,それなら区麗情を紹介しましょうと自信満々にいってしまった.で,10年位前に買って居た区麗情のCDを今きいてみたら,

「当時私はこんな気持ちだったのか」

と恥ずかしくなり,とてもじゃないが,CDを彼に貸す気になれなかった.ああ,危ない.歌詞がどうこうではなく,やはり曲調が,である.

私は10年前は子供だったんだなあ.今もがきんちょだけど,それ以上に.なんとかならんか,このおばはん,ちょっとは成長しなくては.と,自分に言い聞かせるのだった.

 


11月27日 かがさんが

パソコンが壊れ,さらに盗難されたかがさんであったが,最新型のPowerBookとipodを購入し,見事復活したらしい.パソコンとipodを購入するまでは,私と一緒になって

「パソコンにCDいれてちまちまipodに入力するなんて絶対あり得ないよなー」

などと言って居たくせに,すっかりはまり,毎晩ipodにCDを読み込ませていたら,どんどん寝不足になり,今風邪ひいて最悪の状況のようである.

かがさんは極端である.

前のパソコンが手許にないので,友だちのメールアドレスもブックマークもないので,インターネットに繋ぐといったら,アマゾンとネットバンキングだけだそうで,最新型のPowerBookを買った割に非常につまんないので,

「みなさん,メールください」

だそうです.というわけで,かがさんのお友達はかがさんにメールを出しましょう.

 

 

 

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